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小話その10(こんにゃく問答)[禅と音]
 八王子在のこんにゃく屋の六兵衛さん。居候の八五郎を住持不在の禅寺に住まわせたところ、諸国行脚の雲水托善(たくぜん)が問答を願い出る。八五郎、問答に負けると笠一本持って寺を追い出される、というので怖じ気づく。六兵衛さんに相談したら自分が相手しようという。当日、托善が問いかけても無言。

 托善、「お答えなきは三密荒行のうち、無言の行中と相見えたり。しからば愚僧も無言のご問答つかまつらん」と自分の手で小さな○をこしらえる。
 すると六兵衛さん両方の手をもって大きな○をこしらえる。托善は両方の手を開いて高くあげ、10本の指を示す。六兵衛さん、5本の指を示す。
托善三本の指を示したら、六兵衛さん自分の目の下へ手を当てて、アッカンベーをする。

 「恐れ入りました」と去る托善に八五郎が問うと、托善答えて曰く、
「『天地の間は』(指にて小さく○を作る)と申しますと、『大海のごとし』(六兵衛の大きな○)。『十方(じっぽう)世界は』(十本の指)と申しますと、『五戒(ごかい)で保つ』(五本の指)。『三寸の弥陀(みだ)は』と申しますと、『目の下にあり』とのお答え、大和尚の智識は我々の及ぶところではござらん」
と立ち帰ってしまいます。
 一方の六兵衛さん、
「あの乞食坊主はおれがこんにゃく屋ということを知ってる。それだもんだからおれんとこのこんにゃくにけちつけやがって、指でこんなもの(○)をこしらえやがって、てめんとこのこればっかりだと言いやがるから、おれんとこはこんなに大きいと言ってやった。すると十(とう)でいくらだとぬかしやがったから、五百だって言うと、三百に負けろって言うから、アッカンベーをしてやった」

 托善と六兵衛さん、思うところが別々でそれぞれ理屈がとおっているところがケッサクです。しかし、禅についてご存じの方には「茶一杯の禅理」という話を思い出される方もいらっしゃるでしょう。
 ある学者が南隠禅師(なんいんぜんじ、明治時代の人)に禅について尋ねた。禅師は茶を茶碗に注いだが茶があふれてもまだ注ぎ続けた。学者「和尚、茶があふれています」。禅師「あんたはこの茶碗のように、頭の中が自分の見方や考えであふれておる」と諭したということです。

 自分に先入観があれば、他人の言うことが聞こえない。二人で対談する場合、多くの人が性急に自分の意見を話そうとするが、その結果、耳に残るのは自分の声だけで、それ以外は何も残らないことになる。(参考2より)。
 落語で出てきた「無言の行」はいわば音のない世界ですが、禅の世界は広く、当然音の話もあります。
 ある雨の日の鏡清禅師(きょうしょうぜんじ、中国の人)。

 禅師「外ではどんな音がする」
 弟子「雨の滴る音です」
 禅師「さかさまだ。自分を迷わせて、物事を追求しておる」
 弟子「どう感じとればよいのですか」
 禅師「この私が雨の音なのだ」。

 禅の教えは以心伝心、言葉で言い表せないとのことなのでしょうか、鏡清禅師の話、解説を読んでもよくわかりませんでした。興味のある方は(参考2)をお読み下さい。

参考、1)榎本滋民、三田純市編著、落語名人大全(講談社、1995年)
   2)蔡志忠 作画、マンガ禅の思想(講談社α文庫、1998年))

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小話その9(念仏打って鉦(かね)の声)[近隣騒音]
 むかし都の町にほとんどの家が法華宗というところがあった。朝夕お題目を唱える声がかしましい中に、浄土宗の信者がたった一軒住んでいた。この男が大鉦を打ち鳴らし、夫婦で掛念仏(かけねんぶつ)を唱えるのを、法華宗の面々が毛嫌いした。……。みんなで相談して、「あいつは貧乏だから、銀(かね)をやって同じ宗旨にしよう」と集めた銀30枚をある年の盆の前日に届けると改宗して町内なみとなった。その後は夫婦とも人々と同じ御法義を喜んでいたが、翌年の春になって「もはや題目は(法華宗のこと)いやになった」とまた念仏を唱え、鉦を叩きはじめた。町中が立ち会って、「我がままもいい加減にしてもらいたい。ともかくあの時の銀をもどせ」というと「返す筋合いはない。死ぬまで法華になるという約束をした覚えはない」という。人々はその言い分が憎いと、この事を御前(ごぜん)へ訴え出た。

 御前は両方を召し出されて始終をお聞き取りになり、
「その銀は返すこと。しかし親の代からの浄土宗を法華宗に改宗させたのであるから、その間の勤めの念仏を怠ったことであろう。その怠った分の念仏を勘定して、町中で念仏して返し、その上で銀を受け取るがよい」と仰せつけられた。
 人々は御前を退出して家に帰り、いろいろ相談したが、町中で念仏する事に当惑し、銀は取り返さずにすましたという。

 今回はこれまでの落とし噺とはうって変わって人情噺風ですが出典は井原西鶴の本朝桜陰比事です。落語ではありません。落語からのネタもボチボチ尽きてきました。

 さて、この話を現代風に考えると、隣の家からの鉦がうるさい、という近隣騒音の問題となるでしょう。隣家が自分と同じ宗教であれば大きな声でお題目を唱えていても問題になるどころか熱心な信者だとほめられるでしょう。でも隣家から聞こえるのは自分の宗教とは違う、だからうるさく聞こえる。このように騒音問題は受け手の感情に大きく影響されます。

 私の仕事は騒音・振動問題を解決することを目的としていますが、ときどき近隣騒音に関する問い合わせをいただきます。行政の方では相手にしてくれない、とおっしゃられる方もおられます。 話を伺ってみますと、音源側と苦情側の人間関係が壊れている場合がほとんどです。
 一般的には音源側の人が、音を出すときは窓を閉める、時間制限をする等の配慮が望ましいと感じることが多いのですがその要求も拒否されるケースもあるようです。その場合には苦情側はあきらめるより仕様がないでしょう。苦情者が一軒でかつ行政も動かないということであれば法的には騒音の規制基準をクリアしている場合が多いように思います(クリアしていたらどんなことでもしていい、とは私自身は思っていませんが)。
 騒音の改善がされなくとも、隣家はこんな人だとあきらめて顔を合わせたら挨拶をされる方が騒音問題だけでなく長期的には居住環境がよい方向に向かうのではないかと思います。甘いですかね。

(参考 てるおか康隆訳注、現代語訳 西鶴全集 第8巻(小学館、昭和51年))

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小話その8(骨つり)[界壁の遮音性能]
 太鼓持ちの繁八、若旦那に連れられて芸子舞子と釣りに出掛けます。釣り上げた魚一寸につき一円の祝儀がでるというのでみんな大張り切り。ところが繁八、骸骨(がいこつ)をつり上げます。

 繁「エー、これ、何寸ある」
 若「そんなもん、何寸あったかてしようがないわい」

てな話が交わされました後、繁八はその無縁仏を近所の心やすいお寺で回向(えこう)いたしまして、自分は家へ帰ってきて寝酒を飲んで、ゴロッと寝てしまいます。
 すると夜中に、回向のお陰で浮かぶことができたと今は幽霊のうら若い娘が繁八に御礼にやってきまして盃事(さかずきごと)をいたします。その翌朝、

 喜「おはよう、繁やん。殺生やでお前。ゆうべ、女子(おなご)連れてくるなら連れてくると言
  うとけ。……。まあ、夜通しイチャイチャイチャイチャ俺(おら)ァ朝まで寝られへんがな」
 繁「えらいすまなんだ。いや、急に来たもんやさかい」
 喜「しかし良え女子やなあ」
 繁「お前、見たんかいな」
 喜「気になって寝られへんがな。壁を商売物のノミでグルグル穴あけたった」

 ご存じ、東京の「野ざらし」によく似た噺です。

 集合住宅ではこのように隣戸からの音の問題が発生します。インターネットで検索しますとこの方面の記事が多く、詳しく、そして興味深く役に立つ内容には感心します。
 さて、コンクリート厚さから判断される遮音性能が実際には得られないことがあります。遮音のトラブルには設計上の問題と施工上の問題があります。

 設計上の話:界壁・外壁にGL工法を用いると遮音性能では不利になるようです。GL工法とはコンクリートの両側に1cm程度の空間をあけて接着剤等を用いてボードで仕上げする方法です。ただ、遮音性能のみをとらえてGL工法はダメだと言っていいのか、気になります。結露の問題、熱の問題はどうなのでしょうか。この辺り、専門でないので……。

 施工上の話:防音サッシの性能を十分に発揮させようとアソビを無くして施工すると、元々防音サッシは重いものなので一層開け閉めがし辛くなる。そこで、現場の人が開け閉めがしやすいようにわざわざゆるく取り付けたために、設計した遮音性能が得られなかった、という場合もあります。

 時々、音響の技術雑誌にこの分野の特集をしています。まだ未知なところが多いようです。

(参考 桂米朝全集(創元社、昭和56年))

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小話その7(天王寺詣り)[サウンドスケープ]
 ある男、飼っていた犬(クロ)がトラブルにより通行人の持っていた棒で無下性にも鼻を殴られクワァンというたのを最後に死んだのを不憫に思い、彼岸に天王寺へ引導鐘を撞きに物知りの友人とやって来ます。(無下性:むげっしょう。情け容赦なく)
 この噺は天王寺さんの観光案内的な要素が多く、寺内の名所旧跡を紹介しながら歩いていきます。これは西門、輪宝、竜の井戸と最初はビジュアル、視覚的な説明が多いのですが、

 「このようにいうてますと、天王寺の境内には、右の男二人きりのようですが、なかなか彼岸中には、寄進坊主が出るやら、商人さんがたくさん店を出しています。八丁鐘の音がして賑やかなこと。御焼香……。」
 とお囃子(はやし)をバックに、天王寺さんのサウンドスケープが展開されます。
江戸前の寿司屋、独楽屋の口上、覗きからくりの演出が続き、"巡礼が、ちいちいははの恵みも深き粉川寺、おありがとうさんでございます。また乞食が、右や左の旦那様や、どうぞ一文いただかしてやって……、種々雑踏しております。"と語ります。

 他の噺、「三十石夢の通い路」もそうなのですが、噺の内容もさることながら、バックに流れる雑踏の音が雰囲気を盛り上げ、おおいに聴衆を楽しませてくれます。特に覗きからくりは、私が子供の頃両親に連れられ大阪造幣局の通り抜けのときに、出し物は"金色夜叉"だったのですが一度だけ見たことがあるので、とても懐かしく思ったりします。

 この音風景とも言うべき、サウンド スケープは、19世紀末から20世紀にかけて活躍したフランスの作曲家のサティ(ジムノペディ等を作曲、家具としての音楽と言われる)、ジョン ケイジ(ピアニストが何も弾かない“4分33秒”、偶然性の音楽と言われる)の流れから、アメリカのシェーファーがサウンド・スケープを提唱したとされています。日本ではサウンド スケープ協会等でさまざまな議論がされています。 例えば、俳句にみる音風景、京都の祇園祭の囃子の音の拡がりなどがあります。

 さて、話が落語に戻りますと、くだんの男、お坊さんに鐘を撞いてもらったところ、鐘の音の残響が、ウムムとうなるところが死んだクロによう似ているので、最後の三つ目の鐘は自分で撞くと言い出しますが、ゴジャゴジャとしてなかなか撞きませんので、友人がせっつきます。

 「コレお前がそんなことをいわいでもよい、早う撞き」
 「ひィふゥノみっツ、クワァン(鐘の音)、ああ無下性には、殴れんもんやな」

とめでたく音響の噺でサゲとなります。

  参考 笑福亭松鶴、上方落語(講談社、昭和62年)

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小話その6(鉄砲勇助)[ドラえもん]
東京では「嘘つき弥次郎」というのだそうです。
 落語の噺には多少は本当らしく、ひょっとしたらそんなこともあるかもしれん、と思わせるようなことも多いのですが、この噺は全く徹頭徹尾ホラ噺です。
 次の部分は、北海道の冬は家の軒(のき)より雪の方が高いので家の壁に穴をあけて節を抜いた青竹を通して"おはよう"と挨拶をするが、その"おはよう"が凍るというくだりからです。

「それが凍るさかい恐ろしいがな。こっちからおはようーうちゅうたやつが、向こうへ届かんと、その途中でピシャッと凍ってしまいまんのや。でまた、向こうからおはようーちゅうたやつが中途でピシャッと、……両方からのおはようがこの真ん中で凍って、おはようの塊(かたまり)ができまんねん。ほな、声が行き来せんようになりまっしゃろ。ははあん、つまったなあてなもんでな、そうなったら棒を持って行って、こいつでこうコーンとつくとな、おはようの塊が、こっちの家へゴロゴロ、ゴロゴローッと飛び出してな、囲炉裏のそばへ転がってくると、そのぬくみで溶けだして、おはようとこう、……こっちでもおはよう……おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう、おはよう……やかましいのなんの」

「おのれのほうがよっぽどやかましいわ。」

 音声は空気の圧力の変化ですので、声が固まるというのは空気が圧力変化を保ったまま固体化するというのですから無茶な話です。しかし、
 「未来にはコエカタマリンという薬で声が固まるようになる、そして声の中では
  「ワ」という字が一番座りやすいとドラえもんにある。」
と中学生の息子から教えてもらったので早速ドラえもんをチェックしました。(12巻、34巻)

 おもしろいですねえ。「ワ」と言ったら、その文字の形で固まる薬なのです。のび太は「ワ」の二画め後半のノの部分に腰掛けてリフトのように上部を持って乗っています。これを覚えていた息子をほめていいやら嘆いていいやら、、、。

 ともあれ、確かにドラえもんには音をテーマにした漫画がよく出てきます。
 ・ヤカンに声を録音する「ヤカンレコーダー」(4巻)
 ・騒音を吸音する機械が登場する「騒音公害をカンヅメにしちゃえ」(15巻)
 ・"もしも音がなかったら"という願いを"もしもボックス"に電話する「音のない世界」
  (16巻)
 ・ジャイアンの歌声で害虫を追い出す「驚音波発信機」(17巻)
 ・しゃべった声が文字化される「ききがきタイプライター」(35巻)
 ・・・おっと、最後の「ききがきタイプライター」は実用化されていますねえ。未来には他のことも可能になるんでしょうか。

(参考 桂米朝全集(創元社、昭和56年))

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小話その5(賀春の小話)
−その1−
 「わー、ようけ羊が集まりよったなア・・・。けどみんなおんなしような顔しとんねんな。
  おーい、ひつじ。一人ずつ名前云うてみい。」

 「(めんどくさそうに)ええっ−?、わたいら羊だけにメイメイ云うんですかイ。」

(デンデン)

−その2−
 若い羊が野原を走ってましたらワナにかかりました。近くのおじいさんに助けられたんですけど
 段々痩せてくるんで、友達が心配して…。

 「羊さん、一晩でまた痩せはりましたやんか。いったいどないしたん。」

 「へぇ、助けられた恩返しに徹夜でセーター編んでましてん。」

(デンデン)

     (その1ご提供 株式会社 ニューズ環境設計 田中 正一さん)

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小話その4(尻餅)[遠距離伝播]
 年末になりますと、どこかの寄席で「尻餅」という噺をやっていることと思います。貧乏な夫婦が年の暮れになっても餅をつく金がない。仕方がないので深夜、夫がヨメはんの尻をペッタン、ペッタンと音の出るように叩いて世間体を繕うとする話です。

男「今晩、夜中にわいをおこせ。わいは表へ飛んで出て路地(ろうじ)の戸をドンドンたたくわ。
 『竹内っつあんはこの裏とちがいますかいナ、賃搗き屋(ちんつきや)でおます』ちゅうて大きな
  声出すねン。汝(われ)はすぐ路地の戸ォをあけに来い。
  近所のやつが聞きよったら、ハハァやっぱり搗くかして、賃搗き屋が来たなてなもんや」
女「なんぼそんなことしたかて、肝心の餅搗く音がしやへんやないか」
男「それをさしたるのや。わいがうちへ入ったら、汝(われ)、板の間へ、うつ伏せに寝ころべ。
  わいが尻を直(じか)にポンポンたたいて餅の音さす」

 と続くギャクの少ない、また桂枝雀さん(二代目)のいう「緊張の緩和」もないようなスジです。初めて聞いたときはそれほど面白くなかったように思います。
 しかし、私自身50歳近くになりますと、年の暮れの深夜に夫婦が軽口を言いながら尻餅をついている情景は、ある種穏やかな感じがします。夫婦仲が悪ければこういうわけにはいかないでしょう。三代目林家染丸さんのしゃべりがもっちゃりとしていかにも上方風で味わいがあったように思います。

 ところで「冬季・夜間・騒音」と言えば「異常伝播」を連想しませんか。え、しません?。
 異常伝播は、「季節によって、また、特に冬季では一日のうちでも時間帯によって音の伝わり方が変化したり、特殊な条件下では、音源から遠く離れた場所で異常に音が良く聞こえるといった現象は、経験的にはよく知られている。その原因としては風以外に大気中の温度分布の変化によるものと考えられており、……」と資料にあります。
 一般には上空ほど気温が低いのですが、冬季の夜間などには放射冷却により上空と地表面の温度分布が逆転することがあり、このようなときには音線が下向きに曲がられ、音が伝わりやすくなります。

 私の家は「大阪府道中央環状線+近畿自動車道」から500m程度離れたところにあります。深夜その方向からの騒音がいつもより大きくなることもあるのですが、寝られないということはありません。でも、コンサートなどの音だったら気になるかもしれませんねえ。

 参考文献
  佐竹昭広、三田純一編「上方落語」(筑摩書房、昭和44年)
  日本音響学会、騒音の伝播に影響を与える諸因子について、昭和58年1月

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小話その3(次の御用日)[人声の音響パワー]
 大きな声を出す噺には「次の御用日」というのがあります。

 丁稚を連れた気の弱い10代前半の商家の娘さんが、通りすがりに「アッ」と大きな声で驚かされたために、ショックでボーッとする人間になった。「たった一人の娘をこんな目にあわされたんでは親もあきらめることができん」というので、父親はおおそれながらと願書をしたためて西の御番所へ訴える。
 訴えられた天王寺屋藤吉が否認し、藤吉を問いつめる奉行との対話が続きます。

藤吉「なにほど仰せられましても『アッ』と申したものならば『アッ』と申したと申しますが、
  『アッ』と申した覚えのないものは『アッ』と申したとは申されんでございます。」

奉行「おのれ現在、『アッ』てなことを申しておきながら、この期に及んで、『アッ』と申さぬ
  などとは不届き至極の奴、『アッ』と申したことは証人によって明白、
  神妙に『アッ』と申したと申せばよし、この上、『アッ』と申さぬとならば、重き拷問を
  行うても『アッ』と申したと申させてみせるがどうじゃ!」


 こんな調子が何回か続き、声も段々大きくなって、調子も速くなって……、声も出にくくなって……。

奉行「おのれ現在、『アッ』てなことを申しておきながら、この期に及んで、『アッ』と申さぬ
  などとはけしからん奴、『アッ』と申したもんなら、アッ、...アッ
  ...ああ......一同の者、次の御用日を待てい!!」


                  (参考 桂米朝全集(創元社、昭和56年))

 では、「アッ」の音響パワーはどれぐらいか?、と疑問がわいてきました。測定器は手近にあるのですが、室内で測定すると残響時間も測らねばいけません。屋外で大きな声で「アッ」と言ったら、アホかと思われます。
 しかし、技術屋の悲しさです。休みの日に息子二人を連れて公園に行きました。家の近所では最も人気のない、また近くに家も少ない公園へ、よい子も帰る夕暮れに行きました。

 距離5mの最大値の測定結果から、半自由空間音場としてA特性重み付けパワーレベルを求めました。さてその結果です。
112dB(A)
息子A(14才) 114dB(A)
息子B(9才) 109dB(A)
 このレベルは、大型車2台が約60km/hで走行しているときの音響パワーです。そう考えると結構大きなレベルですね。これで我が家がうるさい理由がわかりました。

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小話その2(鷺取り)[音像定位]
A:「サギを捕りまんねん。」
B:「ほう」
A:「深田にサギがよう来まっしゃろ。あそこへ行って、遠くから大きな声で
   「サギー」
  と呼びまんねん。」
B:「ふん、ふん、それで?。」
A:「サギは
   「ははあ、わしのこと呼んどるな。でもまだ遠いみたいやぞ。もっと近づいてから
    バタバタバターと飛び立ったろ。そっちの方がおもろいやろな。」
  てなことを思いますわな。」
B:「思うかいな。」
A:「それで、コソコソと近づいてからさっきより小さな声で
   「サギー」
  と言いまんねん。そしたら、サギは
   「あれ、まだ大分遠いぞ。もうちょっとゆっくりしたろ」
  と思いますわな。」
B:「そんなもんかいな?。」
A:「それで、今度はもっと近づいてサギの後ろから
   「*******」
   と言いまんねん。」
B:「なんて?」
A:「*******」
B:「聞こえへんがな!。」
A:「そうでっしゃろ。そのぐらい小さい声で言いまんねん。サギが
   「あれ、こりゃわしと違うかったんやな。」
  と安心しきったところを後ろから首をギュッとしめる。」
B:「そんなあほな。」

 これは"サギとり"という話のはじめの部分なのですが、私は1970年代後半に枝雀さんのを聞きました。すごいエネルギーが発散していまして、(ジャズの)ジョン・コルトレーンの演奏と同じくらいの衝撃を受けたのを覚えています。
 
 さて、この部分が非常に心に残っていて、"本当にこんな事は有り得ないって言えるのか"と疑問に思っていました。で、「空間音響(森本政之他編著、鹿島出版会、昭和61年)」の距離知覚に関する項目を見てみました。

 距離知覚はいい加減なんですね。音源距離が3m〜15mでは「(スピーカ音による実験によると)音像距離は、受聴者の位置のレベルだけに依存しているが、音像距離の減少は予想されるものより小さい。つまり、距離が半分になるのに6dBではなく、20dBも必要としている。」とあります(物理的には点音源と受聴者との距離が2倍になると6dB下がります)。
 また、生の声を使った距離知覚では、「会話」は話者と音像距離は良く一致していたのですが、「ささやき」は近くに聞こえ、話者が9mのから話しかけても受聴者は音源までの距離を3m以下と判断するようです。

 結局、も一つはっきり解らなかったのでが、最近のオーディオ技術を用いたら音像距離を制御してサギの感覚を狂わせることは可能でしょう。でも、音を立てずに近づいて捕まえる、というのが一番手っ取り早いんでしょうね。

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小話その1(サイト管理者と代表取締役のある日のやりとり)
管:「代表取締役としての挨拶をのせたいんですが…。」
代:「うーん、よしっ!じゃあ音に関する話をしてやろうっ!」
管:「はい…。」(長くむつかしい話かと思い、多少ウンザリする。)
代:「ある人がネズミを捕まえたんやな。」
  「えいっ!えいっ!と、こうな…。」

  (床に座ってネズミを手で捕まえる演技。手の形からネズミは結構大きいらしい)
管:「はぁ…???」
  (作者はこのとき、ねずみ取り器(某漫画にでてくるような「バチーン」と挟む奴を連想し、
   その音の周波数特性がネズミにとって脅威であるのだろうか…とか本気で思う。)
   
  (某漫画…猫とネズミがケンカするやつ)
代:「そこに別の人がきてな、言い合いになったんや。
   「たいしたことない、ちっちゃいやんか!」
   「なにゆーてんねんっめちゃめちゃおっきいわ!」
   「ちっちゃいわっ!!」「おっきいわっ!!」

  と、二人が言い合ってたらな…。」
管:(状況を把握しきれずまだ真剣に聞いている)
   
↑当たり前でしょう。相手が誰だと思ってるんですか。
代:「その時ネズミが言ったんや……「チュー」。」
 それは、「大中小」の「中」とかけてるってことですか?と聞きたかったけど、そんなことを聞いてしまっては、関西では生きていけないのかもしれないと思いました。あぁ、おもしろいというよりビックリしました。

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